舒明天皇陵・段ノ塚古墳 (桜井市忍阪)

2020.5.21 撮影

 

舒明天皇陵(段ノ塚古墳)は外鎌山の山麓より南に延びる尾根の先端に築かれた上八角下方墳です。現在は「舒明天皇陵」として宮内庁により管理されています。後背部を切断し左右を尾根が囲ういわゆる「三方山囲み」の立地に造られ、南斜面を台形状に名前の由来にもなった3段築成の方形壇の上に、平面が八角形で2段築成の墳丘を造っています。

 

 全体の大きさは南北で約80m、東西で約110mで、八角墳丘部の対辺間の距離は約42m、高さは約12mで、当時としては最大級の規模を誇ります。方形段の裾には自然石の花崗岩の列石を並べ、八角墳丘部の基底部には榛原石を小口積みに、墳丘斜面は榛原石を平積みにして墳丘を飾っていたと思われます。飛鳥時代の大王、天皇の墓制として、この段ノ塚古墳を始まりとして、舒明の曾孫の文武天皇まで八角墳が作られ続けます。 


 石室の詳細な内部構造、規模については明らかではありませんが、文久年間(1861~64)の「山陵考」に八角墳の南面が崩壊し石室が露出した際、密かに中を確かめたところ石室内に石棺が2基あり、奥の石棺は横に、前の石棺は縦に置いてあったという村人の話が伝わっています。

 

 宮内庁としては大変珍しい例だと思われますが、陵墓調査室で墳丘外形調査が1992~1997年にかけて断続的に行われています、その結果、上円部南半分で八角墳の隅角が発見され正面の隅角に当たる部分は隅切りになっており(辺長は4.3m)その部分に羨道部の天井石が有ることも確認され、横穴式石室の開口部にあたる場所と推定され、方形段の3段目に開口すると仮定すると、全長24m前後の超大型横穴式石室が備わることになります。ちなみに飛鳥の石舞台古墳は約19mです。これらの事から従来、上円部は正しくは変形8角形(9角形ともいえる)と言えます(宮内庁は、この古墳は上円下方墳という立場です)

 

 

 舒明天皇は日本書紀によると、舒明13年(641年)に崩御され、翌々年の皇極2年(643年)に「押坂内陵」に改葬されたとあり、母親の田村皇女は天智3年(664年)に亡くなった事が記されていますが、墓の所在は明らかにされていません。平安時代に書かれた『延喜式』では、田村皇女は舒明天皇陵内とされている事から合葬されている可能性があり、先ほどの文久年間に村人が見た2基の石棺が見えたという話と符合するのです。忍阪周辺には同時代の有力な古墳は舒明天皇陵をおいて他になく、研究者の間でも被葬者は舒明天皇と母親の田村皇女の可能性が高いと言われています。