■初瀬道(初瀬街道)(伊勢街道)

クリックすると拡大されます。(深赤色の道が「初瀬道です)


モデルコース


 古代、初瀬(泊瀬・長谷)の渓谷は、「隠国(こもりく)の初瀬」ともよばれ、渓谷にそって東西の道が発達した要衝の地で、雄略天皇の泊瀬朝倉宮(『日本書紀』雄略紀)、武烈天皇の泊瀬列城宮(はせのなみきのみや)(『日本書紀』武烈紀)が伝承されており、真言宗豊山派総本山で西国観音霊場第八番の長谷寺がある事でも知らてれます。

  この地で詠まれた万葉集はおよそ50首あり、20もの地名が詠まれています。研究者によると初瀬(泊瀬)は一種の隠れ里に似た異国情緒を感じさせ歌のモチーフとして選択されやすかったのではないかと言われています。また泊瀬は雄略天皇の泊瀬朝倉宮があった可能性の高い脇本遺跡をはじめ武烈天皇の泊瀬列城宮など初期ヤマト王権の中心地が、この泊瀬にあった事でも知られます。

 

 初瀬は後年、長谷寺の門前町として賑わい、伊勢街道の宿場町としても栄えました。こんにち、一般的には長谷(初瀬)といえば長谷寺周辺をイメージされると思いますが万葉集に詠われる泊瀬は現在の地名で言えば外鎌山周辺から長谷寺周辺に広がる広範囲な地域を指すものと思われます。その範囲を東西に走るのが初瀬道です。古い町並みが残るこの街道筋を田園風景を楽しみながらゆっくり歩いてみませんか。


 本サイトでは編集の都合上「上之郷」地域も「初瀬道」に入れています。 

 上之郷(かみのごう)の名前は慶長年間(1596~1615年)に瀧蔵権現を長谷寺の鎮守として與喜山にうつし、その後、十社を合祀するにあたり祭祀の区域を上之郷(小夫地域)、中之郷(初瀬地域)、下之郷(朝倉地域)の三郷に分けたところからきています。

 

 上之郷村となったのは明治21年(1888年)の町村制実施に伴うもので磯城郡に属し1956年(昭和31年)に桜井市に編入されるまでの68年間にわたり村の歴史を作りました。今も上之郷は地域の郵便局やJA等の名前として又このあたりを総称する名前としても残っています。隣接する泊瀬とは又、違った文化圏を持っていたことが、伝説や民俗資料、旧跡等からも伺い知ることができます。 


初瀬ダム

昭和63年3月に完成した多目的ダム。

 

大和川の洪水調整や河川を維持する用水の補給や、桜井市の上水道用水の水源としての役割を担っている。

 

 

天落神六社権現

 

 初瀬川の中流に、高さ4.8m・幅7.6mの巨岩があり、岩上に落神権現を祀っている。礎を固めつつある雄略天皇の力強く自信に溢れた様子がうかがえます。


慈恩寺阿弥陀堂(あみだどう)

 境内には付近の伊勢街道沿いから移した石仏や道標が多数祀られています。境内入口のけやきの巨木は樹齢400年といわれています。

南北朝の争乱によって廃寺の憂き目に会い、現在は阿弥陀堂一宇を残すのみとなっています。玉列神社の神宮寺でした

 

 奈良県桜井市慈恩寺390

 


与喜山暖帯林(よきさんだんたいりん)

 与喜山は長谷寺の寺領として伐採が禁じられ、原生林の状態が残され、天然記念物に指定されている。


連歌橋

長谷寺山門下、初瀬川沿いの道を左手に少し行くと、朱塗りの連歌橋がある。

これは全国から長谷寺へ集まった僧たちが與喜天満神社での連歌法楽のため、この橋を渡ったことから名づけられた。