上之宮遺跡 (桜井市上之宮)

 上之宮(うえのみや)遺跡は1986年桜井市上之宮の寺川西岸の、河岸段丘上の土地を区画整理事業に伴い、桜井市教育委員会で調査が行われ、検出された6世紀末頃の遺構は、聖徳太子の上宮(かみつみや)である可能性が高いと発表され、大きな話題になりました。遺構は6世紀前半に小規模な建物があったようですが、6世紀末に大邸宅として整備されていた事がわかっています。 

上之宮遺跡画像
現地看板より引用

 遺構中央部の柱跡は高貴な人の建物に用いられる二重の長方形状の、四面庇(しめんひさし)の大型建物遺構で北側に長棟の脇殿を配し、東側と南側を柵列で囲み、それぞれに門が備えられています。また西側からは園地遺構が見つかり、庭園部分から日本最古の木簡が出土しています。鼈甲や木器の他、果実の種なども出土し、桃やスモモの核が多量に出土したことから、周囲には花園があったとみられ、当時の園池としては第1級の規模・格式を持っていたと思われます。  


 聖徳太子(厩戸皇子)は幼少の頃、磐余に居を構えていました。その宮殿は上宮(かみつみや)とよばれていました。日本書記の記述に「是の皇子、初め上宮に居しき。後に斑鳩に移りたまふ」や「父の天皇、愛みたまひて、宮の南の上殿に居らしめたまふ。故、その名を称えて、上宮厩戸豊聰耳太子と謂す」とあります。

 

父の用明天皇の宮は磐余池辺犨槻宮である事から上宮はその南にあった事が判ります。又、磐余は磐余山(安倍山)を中心とした地域であったと考えられていることからこの上之宮遺跡はその有力候補ですが一方、周辺に拠点を持つ阿部氏にかかわる遺跡ではないかとの説もあります。県内で6世紀代の建物遺構は数少なく、貴重な遺跡であることから発掘調査後、埋め戻され、園池遺構はその上に原寸大に復元され公開されています。