55.吾はもや安見児得たり・・・
吾れはもや
安見児えたり
皆人の
得がてにすといふ
安見児ごえたり
万葉集巻2ー95 藤原鎌足
歌の意味
私は、ああ、安見児を得た。
すべての人が得難いものという
安見児を得たことだ。
☆鎌足が采女の安見児を
妻にした時、喜んで作った
歌である。
藤原鎌足
家伝によれぱ、推古天皇二十二年に藤原家に生まれる。幼年から学を好み書伝を博渉し、僧旻(そうみん)に学び軽皇子(孝徳天皇)と親交し、雄略英徹な人材として心にかけていた中大兄皇子とは、法興寺における蹴鞠の場で、皇子の脱げ落ちた皮靴を捧げて初めて対面する。ともに南淵諸安(みなぶちのしようあん)に師事し、往還に密議をかさね、皇極天皇四年六月十二日中大兄皇子を助けて蘇我入鹿を大極殿に倒す。
揮毫者 遠藤周作
小説家。カトリック信者。『白い人』で芥川賞を受賞、純文学のほかユーモア小説など幅広いジャンルを手がける。
歌碑の場所 55番
談山神社境内惣社の向かい側、蹴鞠が行われる広場の南隅に北面して建つ